諸谷義武とは? わかりやすく解説

諸谷義武

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/04 03:55 UTC 版)

諸谷義武
もろたに よしたけ
生年月日 1907年1月17日
出生地 熊本県天草郡苓北町
没年月日 (2002-04-16) 2002年4月16日(95歳没)
死没地 長崎県長崎市
出身校 長崎高等商業学校
称号 従四位勲三等旭日中綬章

第22 - 24代長崎市長
当選回数 3回
在任期間 1967年5月2日 - 1979年5月1日
テンプレートを表示

諸谷義武(もろたに よしたけ、1907年1月17日 - 2002年4月16日)は、日本政治家。元長崎市長(在任1967年 - 1979年)。

概要

熊本県出身。長崎高等商業学校卒業後、長崎市内で底引き網の網元の支配人となる。1945年(昭和20年)8月9日、長崎市内の自宅で原爆投下に遭遇。水を求めながら亡くなった被爆者を多数目撃した体験から、市長就任後に平和公園内に「平和の泉」を造らせている。1947年(昭和22年)より長崎市議会議員を2期、1955年(昭和30年)より長崎県議会議員を3期務め、この間1963年5月~1964年12月まで副議長になった。1967年(昭和42年)4月の統一地方選挙で執行された長崎市長選に出馬し当選、以後1979年(昭和54年)4月の市長選で本島等に敗れるまで3期12年間長崎市長を務めた。

市長在任中はグラバー園の開園等の観光文化政策のほか、原爆被爆地の市長としての平和行政にも力を入れ、平和祈念式典時の平和宣言起草委員会の設置、原爆展のアメリカ合衆国内での開催等を行った。また、在任中に核兵器保有国の海軍艦船の長崎港への寄港反対を表明、以後歴代市長もこれを踏襲している。

長崎における美術振興に意を用い、長崎県美術協会会長を1956年(昭和31年)の創立時より1997年(平成9年)まで40年以上に及び務めた。

1980年(昭和55年)、勲三等旭日中綬章叙勲。1996年(平成8年)3月28日に長崎市名誉市民の称号を受ける。1985年(昭和60年)4月から1988年(昭和63年)4月まで長崎県公安委員を務めた(1986年6月~87年6月、公安委員長)。

2002年(平成14年)4月16日、心不全により長崎市内の病院で死去(享年95)。5月17日、長崎市による公葬が長崎市公会堂で営まれた。没後、従四位に叙された。

参考書籍

関連項目


18 - 21代
田川務
長崎市
22 - 24代:1967.5 - 1979.5
25 - 28代
本島等




固有名詞の分類

このページでは「ウィキペディア」から諸谷義武を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から諸谷義武を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から諸谷義武 を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「諸谷義武」の関連用語

諸谷義武のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



諸谷義武のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの諸谷義武 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS