誠友会の山口組傘下入り
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1985年4月5日午後3時、山口組本部事務所で山口組定例会が開催され、席上で岸本本部長が直系組長85人(代理出席は18人)に対して、誠友会(石間春夫会長)の舎弟待遇での山口組参画を発表した。 実は、誠友会と山口組の接触は前年から進められていた。まず、山口組一会会長野沢義太郎が、札幌刑務所の病舎で石間と面会。この時は山口組への傘下入りを持ち出さなかったものの、秋には若頭補佐(当時)の渡辺と桂木が面会し年明けにも中山若頭と会う手筈になっていた。しかし竹中と共に中山も一和会の襲撃で死亡、これを切っ掛けとして石間は山口組傘下入りを決意する。 しかしながら、石間は私文書偽造により懲役4年の判決を受け、宮城刑務所に収監。加えて誠友会が加入していた北海道同行会の会規に「内地の広域組織は同行会には入れない」をいう条項があったことから、山口組の傘下に入ると同時に同行会から離脱することにならざるを得なかった。4月18日に山口組の中西・岸本・桂木らと会見した石間は、川岸朝明会長を通じて同行会に脱退を通告。この扱いについて6月14日の同行会臨時総会でも結論は出ず、有耶無耶の中、北海道同行会に残留したまま7月に石間は四代目山口組舎弟となり、誠友会の系列組織の事務所は山菱の代紋を掲げた。
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