言霊を抜かれて雪は降るのです
作 者 |
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季 語 |
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季 節 |
冬 |
出 典 |
ユキノチクモリ |
前 書 |
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評 言 |
増田まさみの俳句は、イメージの空中を翻る。そこに使われる言葉は、本来その言葉に付けられた意味を脱いで、新しい羽を生やして詩の空間を羽ばたく。深々としたイメージの断層の前に、読み手はしばしば困惑し立ち止ってしまう。しかし、それは最初から読み手を拒んでいるのではない。読み手にもイメージの翼を羽ばたかせることを期待しているのだ。だから、増田まさみの一集を手にする時、一句一句が放つテレパシーを確かに受け止める気力も思考も、それなりに満ちている時でないと、たちまち置いて行かれてしまう。 たとえば、増田まさみの「事象」とは、〈穿たれて華やぐ崖のはるけしき〉〈最後まで離さぬ川も夏に入る〉〈ぼんのくぼ野菊を挿せば嗚咽せり〉〈枇杷落ちて喉の奥まで夕まぐれ〉。「失われた時間」を探れば、〈おさなごの手籠に春が腐乱する〉〈繃帯巻き了りたる霧笛かな〉〈くちびるに裏海の春うらがえす〉〈エプロンで昔泥鰌に逢いにいく〉。「身ほとりの人」では、〈夕ぐれのダリアを押せば倒れる父〉〈雪原の凹みを母で充たしいる〉〈おとうとのような折れ釘庭の秋〉〈ユキノチクモリ早世の乳姉妹〉となる。 こうした着想の飛躍の底に流れている、暗く重たい「抒情の川」を見逃すことはできない。それは、「生まれ育った山陰の雪と雨に閉ざされた《窓》を挟んで畳まれ展げられた景色」を、表現の原風景としているからだろう。さらに言えば、その原風景を見透かされないように翻る言葉を操って、読み手を惑乱の淵へと誘っているのではないか。この独りよがりな推察は、増田まさみの作品鑑賞のよりどころとなるものではない。私たちは作者の発するテレパシーに応えて、詩の空間に心を飛ばしているだけで十分なのだ。 写真 荒川健一 |
評 者 |
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備 考 |
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