角館入り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 09:51 UTC 版)
慶長7年(1602年)、義重・義宣とともに秋田領に入り、名を義勝(よしかつ)と改め、仙北郡角館に1万6,000石を与えられた。 義勝は、それまでの城下が河川の氾濫や火災にしばしば悩まされていたところから、元和6年(1620年)古城山の南側に新たに町割を起こし、城下を移転させた。これが今日の角館城下町の始まりである。道路の幅員を広げるとともに見通しを避ける工夫をこらし、下水を整備し、火事対策を施して武家地、町人地、寺社を配置した。当初は古城山の中腹に館を構えたが、義勝夫人が城中で妖怪を視たため居館を麓に移したという伝承がある。角館に随従した蘆名家家臣には、稲葉家、河原田家、岩橋家、青柳家などがあり、総勢は200名程度だったといわれる。あわせて、会津若松にあった天寧寺の末寺として山号・寺号をそのままに角館城下東方の花場山の麓に天寧寺を創建、菩提寺とした。 寛永8年(1631年)病死、享年57。
※この「角館入り」の解説は、「蘆名義広」の解説の一部です。
「角館入り」を含む「蘆名義広」の記事については、「蘆名義広」の概要を参照ください。
- 角館入りのページへのリンク