親衛隊経済管理本部長官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 18:30 UTC 版)
「オズヴァルト・ポール」の記事における「親衛隊経済管理本部長官」の解説
1942年2月1日には「予算および建設本部」と「経済および行政本部」が統一されて経済管理本部 (Wirtschafts-Verwaltungshauptamt, WVHA) が新設され、ポールがその本部長となる。1942年3月16日の命令により強制収容所監督部隊(司令官リヒャルト・グリュックス)が、SS作戦本部配属からポールのWVHA配属に移された。以降、強制収容所はWVHAのD局となり、正式にポールの傘下となった。これは強制収容所のもともとの意味であった隔離施設としての面よりも、総力戦体制構築が進むにつれて、奴隷労働力の供給源としての側面の方が重視されるようになっていった事を示している。 ポール以下親衛隊経済管理本部は奴隷労働力として強制収容所囚人やユダヤ人を重視しており、彼らの死亡率を下げる努力は常に行っていた。一方労働できなくなったユダヤ人は絶滅対象であった。ソビボル絶滅収容所、トレブリンカ絶滅収容所、ベウジェツ絶滅収容所、ヘウムノ絶滅収容所といった絶滅収容所特化の収容所は彼の管轄下ではなかったが、彼の管轄下の強制収容所のうちアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所とマイダネク強制収容所にガス室が設置され、ここでは到着したユダヤ人を働ける者と働けない者に選別する作業が行われていた。働けないユダヤ人は即ガス室へ送られた。働けるユダヤ人は収容所で収容されて軍需産業の労働力として徹底的に動員されていた。また経済管理本部は収容所に到着したユダヤ人たちから金銭、宝石、金時計、金の入れ歯などの所有物を取り上げ、これらをドイツ帝国銀行に引き渡していた。 1942年4月20日にポールは親衛隊大将に昇進する。また1942年12月、最初の妻と離婚してIG・ファルベン社の下部企業であるヘキスト (Hoechster Farbwerke) 創設者の未亡人エレオノーレ・フォン・ブリューニング (Eleonore von Brüning) と再婚している。
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