見本納品の遅れと技師・寺内信一の派遣
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「久田吉之助」の記事における「見本納品の遅れと技師・寺内信一の派遣」の解説
1917年(大正6年)早春の初面会のとき、翌月には見本をお送りしますと約束した久田吉之助だったがなかなか見本は送られてこなかった。 6月、林愛作支配人が見本を督促すると、久田が、支払いが滞って石炭の供給が停止されているとを遅延の理由を述べたため、帝国ホテルは大倉組から数万斤の石炭を送ったが、久田はそれを資金繰りのために転売してしまった。困惑した林支配人は、蔵前の東京高等工業学校(現・東京工業大学)窯業科の教頭・平野耕輔に相談し、有田の出身で、元・常滑陶器学校校長の寺内信一を紹介された。当時寺内は55歳ほど。寺内が校長をつとめた常滑陶器学校は1899年に創立、小学校を終えた5人ほどの生徒を教えるごく小規模なものだったが、1910年の第10回関西府県連合共進会で、審査会の選評委員を務めているところをみると、寺内は技術者としての見識を認められた人物だったと考えられる。ちなみに、伊奈製陶の伊奈長三郎は常滑陶器学校の第一期生であり、第10回関西府県連合共進会は不二見焼・村瀬二郎麿が和製マジョリカタイルを、伊奈初之丞が和製モザイクタイルを、国内で初出品した日本タイル工業史上特筆すべき共進会である 。 1917年7月初旬、寺内信一は帝国ホテルに招聘された技師として常滑に赴任。寺内は「この分ではホテル建設の期限に間に合わないので、久田との口約を一切破棄し、ホテル直営の作業として出直す。全責任者として寺内を派遣する」という林支配人の意向を伝えたが、久田は「そんな勝手な言い分は無い。私は私として林さんとの約束を実行するまでだ」「僕は、土の事から心配し万事林さんのお指図通り働いてきたものだ、仕事はこれからだ」と納得しなかったが、久田工場に家賃を払うという寺内の提案に渋々応じた。
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