西郷軍への協力と政府軍への帰順失敗
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「藁谷英孝」の記事における「西郷軍への協力と政府軍への帰順失敗」の解説
藁谷は前線に出なかったが、延岡隊の出発に際して、物産会社と延岡の富豪などより軍資を調達する。藁谷は宮崎支庁長ながら当初は西郷軍への協力姿勢が強く、3月上旬に貴島清が兵を率いて旧宮崎県に募兵に訪れると納税5000円を供給し、西郷軍病院掛の有馬雄之進の求めに応じて、大阪商人の大井金象に2000円を与えて病院用薬品を購入させている。 しかしながら鹿児島城下に兵を率いた勅使が到着し、県令の大山が3月21日に県令を罷免、岩村通俊が県令となると方針を転換し、塚本ら延岡隊に政府軍へ降伏すべき旨が伝える。このために明治10年(1877年)5月には延岡隊は政府軍征討先鋒本部へ降伏帰順する方向となり、政府軍への帰順を願い出るために長民らは延岡隊総代として鹿児島へ下ったのとは別に、藁谷も鹿児島の政府軍征討先鋒本部へ赴こうとするが、鹿児島県での戦闘により吉野までしか通ることができずに、長民ら同様に鹿児島城下の政府軍征討先鋒本部に赴くことに失敗する。
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