西ベンガル映画の幕開け
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 01:50 UTC 版)
「西ベンガルの映画」の記事における「西ベンガル映画の幕開け」の解説
西ベンガル映画の歴史は、1920年代にカルカッタで最初の「バイオスコープ・ショー(英語版)」が行われたことで始まった。ベンガル語映画の基礎はヴィクトリア朝時代の映画界の重鎮だったヒララル・セン(英語版)によって作られた。彼はロイヤル・バイオスコープ・カンパニー(英語版)を設立し、スター・シアター(英語版)、ミネルヴァ・シアター(英語版)などの劇場で上演する舞台演劇を数多く手掛けた。1917年に彼が死去した後、1918年にディレンドラナート・ガングリーがベンガル人が所有する最初の映画製作会社インド・ブリティッシュ・フィルムカンパニーを設立し、1919年にはマダン・シアター(英語版)が最初のベンガル語長編映画『Bilwamangal』を製作した。これはインド初の長編映画『ラジャ・ハリシュチャンドラ(英語版)』が公開されてから6年後のことだった。1921年にはインド・ブリティッシュ・フィルムカンパニーが『Bilat Ferat』を製作している。 1930年代にトーキー映画がカルカッタにも流入した。当初、インド映画は富裕層や知識階級向けにウルドゥー語やペルシア語で製作されており、代表的な製作会社として東インド映画会社が存在した。1931年4月にマダン・シアターが最初のベンガル語短編トーキー映画『Jamai Shashthi』を製作し、同年12月にはニュー・シアターズ(英語版)が最初のベンガル語長編トーキー映画『Dena Paona』を製作した。この時期のベンガル語映画で人気を得ていた俳優はプラマテシュ・バルア(英語版)とデーバキー・ボース(英語版)であり、2人は映画監督となり新しい映画スタイルを模索した。西ベンガル映画は他地域のインド映画のようなミュージカル映画の形式とは距離を置き、より芸術性の強い作風に傾倒していった。
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