虎頭要塞の戦い
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1945年8月8日のソ連対日宣戦布告及び8月9日未明の侵攻開始により、虎頭要塞の第15国境守備隊と侵攻してきたソ連軍の間で戦闘が勃発。守備隊長・西脇武陸軍大佐は第5軍司令部に出張中で帰隊が不可能なため、砲兵隊指揮官・大木正陸軍大尉が守備隊長代理として指揮を執った。周辺地域から、多数の在留民間邦人も要塞に避難し、計約1,800人が籠城することになった。九〇式列車加農は通化への移動のため分解されており砲撃を行うことができなかったが、四十一糎榴弾砲はシベリア鉄道イマン迂回線の鉄橋を砲撃し、さらに砲身が射耗するまでソ連軍に砲撃を続けた。 守備隊は絶望的な状況の中、8月15日に玉音放送を聞いたが謀略とみなす。17日、捕虜となっていた日本人5人が、ソ連軍の軍使として日本政府の無条件降伏を伝え、武装解除に応じるようにとの停戦交渉を行うが謀略として拒否、守備隊将校の1人が軍使の1人であった在郷軍人会の現地分会長を斬殺する。その後も戦闘が行われ、8月26日に本要塞は陥落した。生存者はわずか50名ほどだった。10倍以上の戦力で攻勢をかけたソ連軍を相手に2週間以上にわたり防衛戦を行った虎頭要塞の戦いは、第二次世界大戦最後の激戦とされている。
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