藤原清隆とは? わかりやすく解説

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藤原清隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/15 09:55 UTC 版)

 
藤原 清隆
時代 平安時代後期
生誕 寛治5年(1091年
死没 応保2年4月17日1162年6月1日
別名 猫間中納言
官位 正二位権中納言
主君 白河院堀河天皇鳥羽天皇崇徳天皇近衛天皇後白河天皇二条天皇
氏族 藤原北家良門流
父母 父:藤原隆時、母:藤原貞職の娘
兄弟 清隆、範隆、増隆
藤原家子(藤原家政の娘)、高階為行の娘、平正盛の娘、待賢門院女房小丹波、藤原顕憲の娘
光隆定隆、頼季、隆能、隆盛、清成、通成、時房、清円、覚隆、隆雅、覚成、三条公教室、藤原長輔室、藤原経宗室、平範家室、藤原重方室、藤原忠基
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藤原 清隆(ふじわら の きよたか)は、平安時代後期の公卿因幡守藤原隆時の子。官位正二位権中納言猫間中納言と号す。

父・隆時は白河院近臣として白河院政を財政面から支え、清隆自身は近衛天皇の乳母父となったことから晩年に破格の昇進を遂げた。院政期に勢力を拡大した受領層の一人である。また、有力諸家に娘を嫁がせて縁戚関係を築いた。

経歴

白河院政期中期に六位蔵人左近衛将監を経て、嘉承3年(1108年従五位下に叙せられる。その後、兵部権少輔左衛門佐と武官を務める一方、紀伊守として受領も兼ねた。また、永久6年(1118年藤原璋子が立后すると中宮権大進も兼帯している。

元永3年(1120年従四位下に叙せられて衛門佐を離れるが、引き続き中宮大進として璋子に仕え、天治元年(1124年)璋子が院号宣下を受けると(待賢門院)、清隆は院別当に補せられている。またこの間、丹波守讃岐守越後守と引き続き受領も務めた。

鳥羽院政期に入ると、保延5年(1139年)妻の藤原家子が乳母を務めていた躰仁親王が春宮に立てられると、清隆は春宮亮に任ぜられる。永治元年(1141年)正月に躰仁親王が即位近衛天皇)すると、12月に清隆は蔵人頭に補せられ、翌永治2年(1142年)正月に春宮亮の功労により二階の叙位により正三位となり、12月には参議に昇進するなど、破格の昇進を遂げた。

参議昇進後は播磨権守・越前権守と地方官のみを兼帯する。久安5年(1149年従二位権中納言に叙任され、大宰権帥も兼ねた。仁平2年(1152年正二位に至る。

鳥羽院政期末の久寿2年(1155年)5月24日に出家応保2年(1162年)4月17日薨去。享年72。

官歴

注記のないものは『公卿補任』による。

系譜

尊卑分脈』による。

脚注

  1. ^ 『衛門府補任』
  2. ^ 『園城寺伝法血脈』

参考文献




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