藤井丙午との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:25 UTC 版)
日本製鐵時代には官庁色の強かった同社から官僚出身者の排除に共同戦線を張った永野と藤井丙午だが、いっさい口をきかない仲となったのは1965年(昭和40年)のこと。元来何でも自分中心でないと気に食わない永野は、自分より政界や財界に顔が広く、かつ人気もある藤井がだんだん気に入らない存在となっていた。この年、当時国家公安委員だった永野が任期満了となり、後任も財界から選任することになった。佐藤栄作首相は永野に「人選はおまかせします」と下駄を預け、永野は土光敏夫を推した。しかし土光との交渉中に、内閣官房長官の橋本登美三郎を通じ佐藤から「藤井君を後任にしたいので、あの件はなかったことにしていただきたい」という断りが届く。永野は烈火の如く怒り、「おまかせすると言っておいて、何だ!」と佐藤の自宅に怒鳴り込んだ。2階の応接間から言い合う2人の声が響き、秘書達もオロオロしたという。結局後任は藤井となったが、この後佐藤と橋本は一席もうけ土光と永野、藤井も招いて手打式をとりおこなった。だが永野は「よくも俺の顔に泥を塗りやがった」と納得せず、藤井との不仲は決定的となったとされる。しかし永野と藤井の両方と懇意にしていた雑誌『経済界』の主幹・佐藤正忠が何とか二人を和解させたいと仲裁に入り1973年(昭和48年)9月和解した。するとその日の午後に田中角栄首相から永野に「藤井さんに岐阜から参院選に出てもらいたいので、了解してほしい」と電話があり、これを承諾して新日鉄が藤井を全面的に応援する態勢を執り1974年(昭和49年)の参議院選挙で藤井は圧勝して当選した。永野は藤井が亡くなった後も藤井家の面倒をみた。
※この「藤井丙午との関係」の解説は、「永野重雄」の解説の一部です。
「藤井丙午との関係」を含む「永野重雄」の記事については、「永野重雄」の概要を参照ください。
- 藤井丙午との関係のページへのリンク