(新)藝備銀行の設立
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1920年代~1930年代に県下の銀行の整理統合が進められた結果、「勧農合併法」に基づき広島県農工銀行が日本勧業銀行に統合された1937年3月の時点で、県下に本店をおく銀行は藝備銀行の他には呉銀行・備南銀行・三次銀行・広島合同貯蓄銀行の4行を残すのみとなった。 そして戦時期に入ると「一県一行」政策のもと、大蔵省・日本銀行の斡旋と仲介によって残る5行の合併がすすめられ、合併条件や新銀行の役員人事の決定はすべて大蔵省に委ねられた。第二次世界大戦末期の1944年12月には5行による新銀行設立の覚書が交換され、翌1945年4月25日には、(新)藝備銀行の新立合併が認可された。そして、4月27日の創立総会を経て5月1日に新立合併(発足)・開業となったが、この時点での資本金は30,700,000円であり、本店には旧藝備銀行の紙屋町本店が当てられた。これにより県下に本店をおく普通銀行は当行ただ一つに整理されることとなったが、備南地域の営業圏についていえば、世界恐慌期にこの地を本拠地とするいくつかの銀行が、最終的には岡山市に本店をおく中国銀行の発足(1930年)に向かう動きに合流していたため、備南銀行を継承する藝備銀行と中国銀行の支店網が入り組む地域となった。
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