草創神社 (上田市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/08 06:08 UTC 版)
草創神社 | |
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![]() 鳥居および社殿 |
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所在地 | 長野県上田市上田字弥伍平267[1][注 1] |
位置 | 北緯36度24分50.6秒 東経138度16分24.8秒 / 北緯36.414056度 東経138.273556度座標: 北緯36度24分50.6秒 東経138度16分24.8秒 / 北緯36.414056度 東経138.273556度 |
主祭神 | 須佐之男命、彌種繼命[3] |
社格等 | 旧郷社[4] |
創建 | 天喜年間(1055年前後)[5] |
別名 | 津島社[4][3][5]、弥吾社、弥伍神社[4]、彌伍社、彌伍大明神[3]、草創津島宮[5] |
例祭 | 9月25日[3] |
地図 |
草創神社(くさわけじんじゃ)は、長野県上田市上田にある神社[5]。
祭神
祭神は須佐之男命、彌種繼命。津島神社(愛知県津島市)およびその境内摂社である彌五郎社よりそれぞれ分霊を勧請した。境内社として天神社、蚕影社、飯縄社、飛騨守社がある[3]。
歴史
天喜年間(1055年前後)、尾張国の津島神社(津島天王)より分霊を勧請し、「草創津島宮」として創建。文永年中(1274年頃)まで金井飛騨守の支配下で広大な社領と多くの氏子を有していた。しかし戦乱で村とともに社殿が焼け落ち、社領も村上義清によって没収されてしまった。その後、武田氏は当社を祈願所にし、武田信玄は天文21年(1552年)7月22日 (旧暦) に饌米料高7貫文を寄付したが、武田勝頼亡きあと織田氏、仙石氏の支配下で再び衰退した。寛永年間(1624年 - 1643年)、津島神社境内摂社である弥伍郎殿より分霊を勧請、合祀して疫病を鎮めたことから「弥伍大明神」として多くの信仰を集めた[5]。
1895年(明治28年)、社名を「弥伍神社」とし、1898年(明治31年)[注 2]に近代社格制度における郷社に列し、1901年(明治34年)「郷社草創神社」に改称。戦後、社格制度の廃止により「草創神社」となった[5]。
境内
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社叢
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雨降地蔵
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本殿
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境内社
例祭
供物として男子は半弓を、女子は羽子板を奉納するという習わしがある[5]。
交通アクセス
上信越自動車道・上田菅平インターチェンジが最寄り[6]。近隣に「大久保」、「大久保入口」バス停があり[6]、上田駅から上田バス・豊殿線が運行されている[7]。
脚注
注釈
出典
- ^ “神社紹介 上小支部”. 長野県神社庁. 2025年6月1日閲覧。
- ^ “草創神社の情報”. 法人番号公表サイト. 国税庁 (2023年11月29日). 2025年6月1日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k 『小県郡史 余篇』、481 - 482頁。
- ^ a b c 『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』、250頁。
- ^ a b c d e f g h i 『神科歴史探訪』、60頁。
- ^ a b “草創神社の地図”. Mapion. ONE COMPATH. 2025年6月1日閲覧。
- ^ “公共交通機関(鉄道・バス)の時刻表・路線図”. 上田市 (2025年5月22日). 2025年6月1日閲覧。
参考文献
- 小県郡役所 編『小県郡史 余篇』小県時報局、1923年、481-482頁 。
- 下中邦彦 編『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』平凡社、1979年、250頁。
- 『神科歴史探訪』伊勢崎城跡復興会、2019年、60頁 。
関連項目
- 草創神社_(上田市)のページへのリンク