英愛条約をめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:56 UTC 版)
「エイモン・デ・ヴァレラ」の記事における「英愛条約をめぐって」の解説
和平交渉におけるアイルランド側の代表団は、デ・ヴァレラと内閣の任命を受けた「全権委員会」であるとされていた。しかしこの交渉において、新生アイルランドの立場は(国際的にまだ承認されていなかった)英連邦の中の独立国としての暫定政府を、王の任命を受けた総督によって治められるアイルランド自由国と言い換えただけではないのかという批判が起こった。デ・ヴァレラはこの交渉の結果に異議を唱えたが、彼の反対者たちはデ・ヴァレラがこのような展開を見越した上で交渉の席から去ったに違いないと非難した。1921年12月6日、ロンドン条約(イギリス・アイルランド条約)がイギリス政府とアイルランド側の間で締結された。アイルランド側は主にマイケル・コリンズとアーサー・グリフィスとが交渉にあたった。これによってイギリス連邦自治領アイルランド自由国が成立した。北アイルランドはイギリス領として残り、アイルランド統一は成就しなかった。全権委員会には事前に交渉の妥協点についてデ・ヴァレラから秘密裏に指示が与えられていたため、デ・ヴァレラは交渉の結果自体には不満がなかったが、委員会が自分の最終的な承認を得ずに調印したことが気に入らなかった。しかし、このような事態の最大の原因は、デ・ヴァレラが自ら交渉の席につかなかったことだった。1922年の交渉批准後、デ・ヴァレラとシン・フェイン党の条約反対派はドイル・エアランを離れ、独自の政府を樹立しようとした。このためドイルを抜けたデ・ヴァレラに代わり、アーサー・グリフィスが議長に選ばれた。
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