芸名の差配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 19:51 UTC 版)
他の一門の襲名にも数多く関与している。 6代目三遊亭圓生が持つ名跡と自分が持つ名跡を交換しようとし、結果として本来の一番弟子に7代目橘家圓蔵という大名跡を襲名させる事が出来た。しかし、8代目文楽が持っていた「桂小南」は6代目圓生によって使われることはなく、「桂小南」という名跡は空き名跡となった。当時2代目山遊亭金太郎だった2代目桂小南は、真打昇進時に三遊亭右女助を継ぎたかった。8代目文楽の弟子6代目小勝がかつて「桂右女助」を名乗っていたので8代目文楽がこの名跡を管理していると考えられていた。8代目文楽を訪問して三遊亭右女助の名をもらえるか打診すると、右女助より格上の小南をと言われて師弟共々驚きかつ喜んだ。 3代目桂米朝は4代目桂三木助を襲名することになった。3代目米朝は東京の8代目文楽に直に会い、協力を申し入れた。松竹直営の大劇場、大阪・中座での襲名披露興行を提案し、3代目米朝側は千土地興行から松竹芸能への移籍を示唆している、と解釈した。千土地興行へ恩義があった3代目米朝は襲名を辞退し、話はそこで立ち消えになった。 桂文治の名跡は桂派家元の大名跡だが、東西を行ったり来たりしていた。8代目文治は8代目文楽のかつての師匠で、落語協会会長であった。8代目文治没後、元弟子で8代目文治の前名を名乗る9代目翁家さん馬に9代目文治を襲名させた。名跡が大阪に流出することを防ぐためである。経歴的には最善の選択のように思えるが、彼は本格的古典派でなく、本人も幾つかの理由で襲名を嫌がったが結局8代目文楽の押しで襲名を実現させ、東京にこの名跡を残した。
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