自由主義勢力への接近
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 23:27 UTC 版)
「ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)」の記事における「自由主義勢力への接近」の解説
1849年にヴェストファーレン県やライン県の知事に就任し、妃アウグスタとともにコブレンツ選帝侯宮殿(ドイツ語版)で暮らした。 これ以降、自由主義的なアウグスタ妃の影響で自由主義派の学者と親交を深め、兄王と対立を深める中、「週報党(ドイツ語版)」など自由主義的保守派がヴィルヘルムを取り巻くようになった。兄王の周りにはレオポルト・フォン・ゲルラッハ(侍従武官長)ら保守派の側近グループ「カマリラ(ドイツ語版)」が取り巻いていたため、ヴィルヘルムも兄王との違いを強調するために形式的に自由主義的な主張を行うようになった。 クリミア戦争中の1854年には、親英仏を主張していた週報党の面々が親露を主張するカマリラによって官職辞職に追いやられ、これによりプロイセン政府は英仏と距離を置いた中立の立場を取ることになった。週報党に近しいヴィルヘルム王子はこれに反発して一時バーデン=バーデン(バーデン大公国)へ移っている。しかしヴィルヘルム王子は自由主義派のように「反動の本拠地」ロシアと戦争したがっていたわけではなく、「東方の友好国」ロシアがこれ以上戦争継続に前のめりにならないよう牽制したがっていたのだった。 1854年に元帥位を有する上級大将に昇進の上、マインツ要塞(ドイツ語版)の知事となった。
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