繁栄期の問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/19 16:03 UTC 版)
パシフィック電鉄の最盛期は1920年代前半にあり、1912年に約7000万人であった輸送客数は1924年に1億900万人となった。その後は減少に転じ、1929年には8800万人となるものの、他のインターアーバン路線と比べると、その減少の度合いは比較的少なかった。 しかし、ロサンゼルス郡の人口が1910年の50万人から1930年の220万人まで4倍に増加した事を考えるとこの業績は不十分なものであった。ロサンゼルス近辺をカバーしていたサザン・パシフィック鉄道は、パシフィック電鉄と連携輸送体制を深める代わりに、自社の近郊旅客輸送を廃止していて、ロサンゼルス郡内の郊外への通勤輸送はパシフィック電鉄の独占状態にあったのだが、路線の高規格化が進まなかった事からその役割を十分に果たしたとは言いがたかった。 高規格化が遅れたことには、ロサンゼルス都市圏での公共交通整備に関しての市民のコンセンサスが得られにくかった事が関係している。東部の都市では盛んに行われていた、補助金による新線建設は反対により行えず、高運賃に不満をもつ市民も多かった。沿線自治体の中にはパシフィック電鉄と袂を分かって独自にバス運行を行うところも現れた。自家用車が台頭する中、会社はバス路線の拡充を行い、利用客の繋ぎとめを図った(バス輸送を含む1930年の輸送客数は1億人を維持している)が、部分的な成功を収めるに過ぎなかった。
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