編者・年代 [編集]
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/05/20 07:50 UTC 版)
編者大草公弼の出身である大草氏は江戸幕府の一旗本に過ぎないが、その祖は信州小笠原氏の支流にして、南朝の皇胤良王君(尹良親王王子)に随従したとの伝承を保持しており(『浪合記』)、このような因縁から公弼は南朝史に対して格別の関心を寄せるようになったと言われている。文化6年(1809年)8月の自序によれば、南朝の史実には疎漏多くして完書がないため、「正統之君、節義之臣」の事績が湮滅することを遺憾とした公弼が、南朝に関する史料や文献を博捜・吟味して成稿したものとされる。起稿は文化甲子(1804年)9月とあるから、およそ満5年を費やして執筆したことになるが、史料蒐集を始めとする準備にはそれ以前から相当の歳月をかけているであろう。なお、本書は成稿した後間もなく幕府へ献納され、その際公弼は時服として小袖2重を賜っている(本書奥書、『続徳川実紀』文化6年9月21日条)。
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