絡み合う領土問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 08:04 UTC 版)
(第二次世界大戦下のルーマニア)も参照 時計の針は少し戻るが、ルーマニアとブルガリアは1939年9月の開戦時には中立を宣言していた。だがルーマニアは1940年6月26日、この時はドイツと不可侵条約を結んでいたソ連の圧力で、係争地域だったベッサラビアとブコヴィナの割譲(ベッサラビアは革命の混乱に乗じてロシア帝国から奪った土地なので、見方を変えれば返還)を強いられた。さらにこの弱腰が祟り、今度はドイツの圧力でブルガリアへドブルジャの割譲(これも第一次世界大戦の結果ブルガリアから奪った土地なので、立場を変えれば返還)、ハンガリーにはトランシルヴァニアの割譲(これも同様)を迫られた。ルーマニアはこの事態に反発したが、プロエスティの石油利権を手放すことなど考えられないドイツは同国の政治情勢に介入して、親独派のアントネスク政権を樹立した。ブルガリアはドイツに借りができたが、悲願である第一次世界大戦、そして二度のバルカン戦争で失った領土の完全回復にはまだ遠かった。 従って、この二国とハンガリーからすれば、ドイツがソ連に、そしてユーゴスラビアとギリシャに侵攻するならば、それに加勢すれば最も簡単に失地回復が図れるという状況が現出していた。そのため4月6日の作戦開始時、ハンガリー軍はユーゴスラビアに、ブルガリア軍はギリシャに侵攻するドイツ軍の一翼を担ったのである。
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