経書批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 13:58 UTC 版)
劉知幾が「疑古」「惑経」篇で儒教的な禅譲説といった経書の記事に対して批判を行っていることは古くから注目されている。たとえば、劉知幾は西晋の頃に発見された出土文献である汲冢書を根拠に、堯と舜や桀と湯の禅譲は疑わしく、実際には奪位だったのではないかと指摘している。ここで劉知幾は、経書とそれ以外の史料を同等に扱い、合理的判断から結論を導いていると言える。また、劉知幾は自身が尊んでいる『春秋』に対しても、その内容が事実と合わないものがある点や、毀誉褒貶に誤りがある点などを指摘している。 「疑古」も参照 稲葉 (2006, pp. 361-365)は、こうした劉知幾の経書批判は、『五経正義』を中心とする従来の経学に対して批判を加えた王元感に影響を受けるとともに、中唐以後の啖助(中国語版)・趙匡・陸淳(中国語版)による新たな春秋学の勃興、そして宋学の展開へと接続してゆくと述べている。但し、劉知幾の経書批判は、従来絶対的な価値を与えられてきた経書を相対化する方向を持ち合わせつつも、最終的な目標はあくまで自身の述べた経書批判に耐えうるようなより高次の経書解釈を行うことであって、経書の価値の否定にあったわけではないことも指摘している。
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