組長の来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/18 16:24 UTC 版)
組長の羽根恒夫は山口組二次団体・中西組の幹部だった。1975年に大阪戦争が起きると同年8月23日に大阪市住吉区内の松田組系暴力団村田組長宅を銃撃した。この行為が山口組三代目組長の田岡一雄に評価され、この頃から羽根悪美と名乗り、神戸市内に羽根組の拠点を置いた。 1976年10月、田岡のボディーガード兼個人秘書となる。122人の直系組員のうち、最高幹部と舎弟を除いた一般の若中で、羽根の席次は第2位であった。 1978年7月11日夜、京都・三条のナイトクラブ『ベラミ』で、田岡が村田組の大日本正義団構成員、鳴海清に狙撃され重傷を負った。この事件の後に羽根は報復の目的で地下へ潜伏したが、神戸市内で泥酔していた所を発見され銃刀法違反の容疑で逮捕されている。その後大日本正義団幹部の殺人未遂容疑で懲役11年の実刑判決を受け、1989年7月21日まで福島刑務所で服役した。
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