紙幣・為替・証券
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 17:19 UTC 版)
銅銭・鉄銭は重く嵩張り、金銀は高価なため、どちらも持ち運ぶには不便な点がある。それを補うために便銭(飛銭)という為替制度があった。唐代長安の便銭務という役所では、銭を預けて預り証を受け取り地方の役所で換金出来たが、この制度は宋にもあった。民間の堰坊では、銅銭・金銀・布帛などを預かって交子(会子・関子)と呼ばれる預り証を発行していた。 四川や陝西・河東では鉄銭が使われたが、鉄銭は銅銭と比べても重く不評であった。そこで成都の商人が集って鉄銭を預かり交子を発行していた。交子は使い勝手が良く、四川や陝西では広く流通していた。この交子の利益に目をつけた政府は、商人の経営が傾くと商人に代わって交子を発行した。交子は世界最初の紙幣とされる。交子は始め四川や陝西でのみ流通していたが、やがて全国へと広がり、兌換の対象も鉄銭から銅銭へと替わった。交子には界と呼ばれる期限があり、その間に使用ないし兌換しなければ紙切れとなった。 専売の引換券である交引もまた一種の有価証券として扱われ、取引された。詳しくは#専売を参照のこと。 南宋に入ると銅銭本位制を破棄し、紙幣の発行高も大きく増える。南宋では紙幣として臨安周辺で流通する行在会子・四川の銭引・湖広の湖広会子・淮南の淮南交子の四種類があった。南宋初には400万貫だった総発行額は財政赤字の穴埋めの為に増加し、乾道4年(1168年)には2000万貫となった。 1159年に出された規定では、1万貫以上の銅銭を保有する者は2年以内に会子や商品へ換える事が義務付けられ、銅銭は経過後に例外無く没収された。1168年までは、前述の界の期限内に銅銭又は銀又は新紙幣と交換出来たが、以降は新紙幣との交換のみになり不換紙幣へと変わった。
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