紀伊山地の参詣道と日光社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 01:48 UTC 版)
「日光神社」の記事における「紀伊山地の参詣道と日光社」の解説
紀伊山地には高野山、熊野三山、吉野・大峯の3つの霊場があり、各地からそれぞれの霊場に至る、あるいは3つの霊場の間をつなぐ参詣道がある。日光山は、紀州各地からこれら3つの霊場を目指す際の最短ルート上にある要地であった。古老の伝承によれば、鹿ヶ瀬峠以南の紀南地方各地からは、各地域の河川を遡上して龍神を目指し、ついで日光山を経由して吉野・大峯または高野山を目指したといい、紀南各地の河川上流部と龍神をつなぐ道を「奥辺路」と称した。紀中・紀北からは、日光山またはその山麓をまず目指し、ついで伯母子岳から小辺路に入って熊野本宮へ向かう、あるいは城ヶ森山(じょうがもりやま)から中辺路に入って熊野本宮へ向かう、という道程がとられたという。 こうした道程を裏付ける中世の史料や説話文学が存在し、正平3年(1348年)、高師直が吉野の南朝を攻略した際、後村上天皇は吉野を脱出して阿弖河へ逃げ延びたと伝えているほか、一遍上人聖絵第3の詞書は、一遍が文永11年(1274年)、高野山から熊野へ参詣する際に日光山・龍神を経由して岩田川沿いに出たのち、熊野へ向かったと伝えている。 文永十一年のなつ、高野過て熊野へ参詣し給う。山海千重の雲路をしのぎて岩田河のながれに衣の袖をすすぎて、王子数所の礼拝をいたして、発心門のみぎはにこころのとざしをひらき給。 — 一遍上人聖絵(第3の詞書) また、日光山を経由する紀伊山地の霊場への道は、中世説話文学にもしばしば登場する。『太平記』巻5の大塔宮十津川落ちの件において大塔宮は、切目王子での熊野権現の夢告により、十津川を目指し、戸野兵衛のもとへ落ちのびる。この逃避行の経路は、前述の吉野と紀南をつなぐ参詣道と重なっている。兵衛は、大塔宮に味方となる勢力の所在を告げるが、その所在地は日光山山麓に展開し、日光社の宗教的影響下にあった可能性がある。紀伊半島各地には平家落人の伝承が多数あるが、上湯川の旧家小松家は平維盛の末裔と伝えられる家系であり、日光社参詣曼荼羅を所蔵しているなど、日光社と深い所縁を持っている。
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