箏の参入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/07 22:23 UTC 版)
芸術曲における箏と三味線の本格的な合奏は、元禄期の生田検校により始められたと言われ(異説もあり)、三味線の曲(地歌)に箏のパートを作り合わせるようになった。当時は両パートをほとんどユニゾンに合わせるだけであったが、文化頃に至って大阪の市浦検校により、元の三味線パートに対して異なった旋律を持つ箏のパートが作られるようになり、合奏効果が高まった。これを「替手式」と呼び、京都の八重崎検校らによりいっそう洗練されたが、三味線と箏の両パートを一人の作曲家が作るようになったのは八重崎の弟子の光崎検校からである。 いっぽう江戸では、1777年に山田検校が新しい箏曲山田流を創始するが、これは地歌ではなく一中節、河東節など浄瑠璃の音楽スタイルを取り入れたもので、はじめから箏と三味線を合奏させていた。
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