第2代サンタ・クルス侯爵によるジェノヴァ救援
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/20 13:58 UTC 版)
スペイン語: El socorro de Génova por el II marqués de Santa Cruz 英語: The Relief of Genoa by the 2nd Marquis of Santa Cruz |
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作者 | アントニオ・デ・ペレーダ |
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製作年 | 1634-1635年 |
種類 | キャンバス上に油彩 |
寸法 | 290 cm × 370 cm (110 in × 150 in) |
所蔵 | プラド美術館、マドリード |
『第2代サンタ・クルス侯爵によるジェノヴァ救援』(だいにだいサンタ・クルスこうしゃくによるジェノヴァきゅうえん、西: El socorro de Génova por el II marqués de Santa Cruz, 英: The Relief of Genoa by the 2nd Marquis of Santa Cruz)は、スペインのバロック期の画家アントニオ・デ・ペレーダが1634-1635年にキャンバス上に油彩で制作した絵画である。スペイン王室のコレクションにあったが、フランス革命中の半島戦争の時代にフランス軍のセバスティアニ元帥によりパリに持ち去られた。その後、作品はロンドンとパリの個人所有者を経て、1912年にマルセル・デ・ネメス (Marcel de Nemes) によりマドリードのプラド美術館に寄贈された[1][2]。
背景
本作は、スペイン国王フェリペ4世の趣味の館として造営されたマドリードのブエン・レティーロ宮殿の「諸王国の間」 を装飾するために描かれた12点の戦勝画のうちの1点である[2]。これらの戦勝はすべてフェリペ4世の統治時代のものであり[1]、ペレーダの本作以外に、ディエゴ・ベラスケスの『ブレダの開城』、フランシスコ・デ・スルバランの『カディスの防衛』、フアン・バウティスタ・マイーノの『バイアの奪還』 (すべてプラド美術館蔵) などがこの連作に属している。当時23歳であったペレーダは、マドリードの宮廷で建築家、静物画家として知られていたイタリア人ジョヴァンニ・バッティスタ・クレッシェンツィの後ろ盾があって、この宮殿装飾に携わることになったと考えられる[2]。
作品

当時のスペインとフランスはイタリアのリグーリア地方の支配権を巡って対立していた[1]が、本作は1625年にサヴォィア公爵とフランス軍によって包囲された都市ジェノヴァが、スペインの第2代サンタ・クルス侯爵アルバロ・デ・バサンによって解放された場面を描いている[2]。画面左側は大きな石壁を背景に鎧をつけ槍を持った2人の兵士の姿で遮られ、ジェノヴァ側の人物がわずかに覗くだけである。左上には数本の槍が並んでいる。救出されたジェノヴァの元首は帽子を脱いで、画面中央のサンタ・クルス侯爵に謝意を表している。右側には豪華な衣服を身に着けた小姓の少年がおり、正面に目を向けて画面の出来事を鑑賞者に示している。この少年の先行例は、スペイン王室のコレクションにあったティツィアーノの『軍隊に演説するアルフォンソ・ダヴァロス』 (プラド美術館) 中の左端に見える少年である[2]。
背景は実際のジェノヴァというよりペレーダが創造した都市であり、尖塔のある北方のゴシック都市を想起させる。上部中央には撤退するフランス軍の兵士たちや船が混沌とした中に描かれているが、臨場感が希薄で演劇的な要素が見られ、スルバランの『カディスの防衛』を思わせる。一方、威厳ある人物像は、ベラスケスの『ブレダの開城』に通じるともいわれる。いずれにしても、宮殿装飾用の戦勝画を依頼された画家の中で一番若かった[1]ペレーダが大画面の物語画を描くために、優れた先輩画家たちに学んだのは当然であったろう[2]。

サンタ・クルス侯爵はジェノヴァを解放した時には54歳であったが、1632年にはマドリードに赴き、王妃付きの家令となっている[2]。本作は1634-1635年に制作されているため、ぺレーダが侯爵を知る機会は十分にあったと考えられ[2]、当時63歳であった[1]侯爵を前にしてその肖像を描いた可能性が高い[1][2]。ほかの諸侯たちもその特徴的な相貌から、実在の人物の肖像であると考えられる[1][2]。
ヴェネツィア派的な[2]色彩の豊かさと質感、物語的なまとまり、一体感ある構図、表現力豊かな身振りにより、本作はブエン・レティーロ宮殿の戦勝画の中でも最もよく構想された作品の1つとなっている。制作時に23-24歳であったペレーダは自身の若さを意識しつつ、作品を誇らしく思ったのであろう[1]。署名に年齢を記しており、その残存する部分は「Antonius Pereda / aetatis suae... (アントニオ・ペレーダ、...の年齢で)」と読める[1]。なお、クレッシェンツィの死により、ペレーダの宮廷入りの道は閉ざされてしまうが、彼の才能は後に『騎士の夢』 (王立サン・フェルナンド美術アカデミー、マドリード) などのヴァニタス画において十分に発揮されることになる[2]。
「諸王国の間」の戦勝画
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ディエゴ・ベラスケス『ブレダの開城』(1634-1635年)、プラド美術館
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フランシスコ・デ・スルバラン『カディスの防衛』(1634年)、プラド美術館
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フアン・バウティスタ・マイーノ『バイーアの奪還』(1634-1635年)、プラド美術館
脚注
参考文献
- プラド美術館展 ベラスケスと絵画の栄光、国立西洋美術館、プラド美術館、読売新聞社、日本テレビ放送網、BS日テレ、2018年刊行 ISBN 978-4-907442-21-7
外部リンク
- 第2代サンタ・クルス侯爵によるジェノヴァ救援のページへのリンク