第1護郷隊(第3遊撃隊)
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第3遊撃隊(第1護郷隊、村上治夫隊長)は4個中隊、約500名で編成。村上大尉と他6名の中野学校出身士官が着任。名護岳(第1中隊)、多野岳(第2中隊)、久志岳(第4中隊)、乙羽岳(第3中隊)を拠点として、遊撃戦に備えた。 1945年4月17日の真喜屋、稲嶺、源河の遊撃戦では、「敵に利用される家ならば」と里の家屋に付け火をして回らせた。6月には、集合に遅れた少年兵を制裁のため、仲間うちで射殺させるという凄惨な事件も起こしている。 「 射撃訓練で標的にあたらなければ、その日の夕食はなし。『弾はお前達よりも高い。はがき一枚でいくらでも兵隊は連れてこられる』といわれた隊員もいました。下士官が歩いていて、敬礼をわすれると拳骨で殴られる人もいました。 」 —第一護郷隊所属 (恩納村)(『広報おんな』425号 (2016)より) 第1護郷隊は実質的に7月に解散するが、終戦後も村上隊長らは数度の下山勧告も拒否し、名護岳付近に潜伏した。1946年1月2日、日本軍将校が第32軍 (沖縄守備軍) の作戦参謀であった八原博通の手紙を携えて説得した結果、翌日下山した。既にその時、八原は捕虜を解かれ本土に帰郷していた。 第一護郷隊の慰霊碑
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