第二の府主教座設置要求による動揺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 00:55 UTC 版)
「ロシア正教会の歴史」の記事における「第二の府主教座設置要求による動揺」の解説
トヴェーリとモスクワの抗争、そしてリトアニア大公国とモスクワの抗争を通じ、「キエフ及び全ルーシの府主教」を誰が保護下に置くのか、そして「キエフ及び全ルーシの府主教」が誰を保護者として選ぶのかは重大な問題であり続けた。府主教座の掌握は、全ルーシ支配の正当性をもたらすものだったからである。イヴァン・カリターは1328年、ウラジーミルからモスクワに府主教を移動させることに成功し、モスクワによる全ルーシ支配の正当性を得る礎を築いた。 キエフ府主教の北東ルーシへの遷座に伴い、ある種の置き捨てられた感を持った南西ルーシ諸公と、南西ルーシに自らの影響下にある府主教座を置くことで南西ルーシの正教徒への支配権確立の正当化を画策するリトアニア大公国は、新たな府主教座の設置をコンスタンティノープルに要求していくことになった。こうした要求には本来、全ルーシを管轄する者は名義通りキエフに所在しなければならず、ウラジーミルにとどまらないモスクワへの遷座は認められないという主張を伴っていた。これはもっともな理屈ではあったが、ウラジーミルに遷座した上にモスクワへの事実上の遷座を行ったことには確かに疑問が大きかったとはいえすでにキエフ府主教がいる以上、キエフに重複する府主教座を設けることが教会法違反であったことも確かであった。ましてモンゴル系汗国やカトリック諸国からの軍事的脅威を避けるためというやむをえない事情によって北東ルーシへ拠点を移した府主教座にとって、このような論は当然認められるものではなく、第二の府主教座設置はルーシ分裂の契機とも成り得る危険を孕むものであった。 結局、ハールィチ府主教座、リトアニア府主教座などが一時的に成立はするものの、それらの府主教座は終局的には閉鎖されていく。この間、コンスタンティノープル総主教庁は効率的な事態打開ができなかった。
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