窮貧救済・老人介護
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 19:01 UTC 版)
高知慈善協会は、その育児事業が安定したことにより、1918年(大正7年)より貧民救助、1920年(大正9年)より老衰貧困者の救護を開始し、窮貧救済事業に着手した。菊栄はこの事業の監督責任も務めた。協会の敷地内には平均して5人、6人の貧民や老衰者が住み、中には精神錯乱や痴呆といった、世話のかかる者もいた。部屋中を散らかしたり、排泄物を壁に塗って汚したりと、周囲を困らせる者もいたが、菊栄は平気な顔で、どんなことにも心を尽くして世話をしていた。先述のように菊栄が多くの人々に頼られたことは、この事業で菊栄の名が高まったことが理由の一つに挙げられている。 1932年(昭和7年)には救護法施行と共に、高知博愛園には養老部が併設された。大正時代から老人たちの世話も手がけていた菊栄にとって、この養老部は朗報であった。養老部には身寄りのない老人たちが収容され、その中には痴呆性の老人や、精神障害者も含まれていた。寝たきりや心を病んだ老人たちも多かったが、菊栄はそうした老人たちの介護にも尽くした。 1942年(昭和17年)、日本が太平洋戦争に突入した後、老人たちのために割く国力が無くなったとの理由で、高知博愛園の養老部は廃止された。この10年間で菊栄が世話をした老人たちの数は、のべ千人以上の数にのぼった。
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