種牡馬として頭角を現す
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 05:20 UTC 版)
「豊平 (馬)」の記事における「種牡馬として頭角を現す」の解説
あるとき、道産子に攻撃された豊平は隣の牧場の敷地内に逃げ込み、そこにいた牝馬と交配する。血統不詳の巻き馬の仔を受胎させられた牧場主は大いに怒り、大塚は平謝りし賠償金まで支払った。 ところが生まれた仔馬が競走馬として大活躍し、豊平は一躍種牡馬として注目を集めることとなった。種付け頭数が増えるにつれて産駒はますます活躍を続け、その系統は「豊平系」と称されるほどに繁栄した。 産駒ははじめ札幌競馬場、函館競馬場、十勝競馬場といった北海道の競馬場を席巻し、やがて本州の競馬場へ遠征する馬が出現。各地で優れた競走成績を収め、第一浦河、花園は帝室御賞典にも優勝した。 大種牡馬としての地位を確立して以降は、豊平の産駒というだけで高く売れ、また豊平の仔であることを証明する烙印のある馬は無検査で軍馬として購買されるようになった。烙印を押していたのは大塚助吉であったが、助吉のもとを訪れて豊平の仔ではない馬に烙印を押すよう依頼する生産者も現れた(大塚はしばしばそうした依頼を引き受けていたが、烙印の方法を変えることで本物か偽者か判別がつくようにしていたともいう)。 なお、豊平の産駒は優秀な競走馬を産むことが少なく、その系統はやがて衰退した。1944年の東京優駿優勝馬カイソウの母には豊平の血が流れていたとされる。
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