種夫のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/08/12 04:00 UTC 版)
印刷の版下、包装紙、マッチなどの美術デザインや印刻などあらゆる仕事をこなしたが、もともと純粋絵画や彫刻が専門だったため、面倒な仕事ばかりが依頼された。作品を仕上げるのに時間がかかりすぎて依頼主が痺れを切らすことも度々だった。妻の和子との間にできた4人の子供たちを食べさせていくのはきつかった。 明治生まれの世代には車の運転などまったく縁がなかったが、日に何度も新聞やテレビで自分がデザインしたトヨタマークが目に入り、トヨタの記念事業の折は取材がありトヨタとの縁は深かった。トヨタの発展を喜んでいた。種夫は昭和58年(1983年)2月4日に肺繊維症にて長崎市民病院に入院中、心臓発作にて死亡。享年75。
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