祭教分離―教導職の廃止と教派独立の促進
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「教派神道」の記事における「祭教分離―教導職の廃止と教派独立の促進」の解説
1882年(明治15年)1月、内務省による乙第7号によって、祭教分離が行われ、神官教導職についているものが祭祀を行うことを禁止されることで、祭祀を行う神官を続けるか、教法を説くかの分離が促進され、教派神道の形成が強固となった。 自今神官ハ教導職ノ兼補ヲ廃シ葬儀ニ関係セザルモノトス — 明治十五年一月二十四日内務省達乙第七号 この後、1882年(明治15年)5月15日、神宮教を含む6派が独立し、神宮教の所有に移った祭神論争のもととなった神宮遥拝殿は大神宮祠と改称し、神宮大麻は神宮教が頒布することになる。千家尊福のようにこれを機に出雲大社の宮司を辞して弟に譲り、出雲大社教の管長となった例も見られる。1884年(明治17年)8月11日の政官布達によって教導職は廃止され、祭政一致を経た政教分離の意図のもとで祭教分離され、教派神道が明確に形成された。教導職が廃止されると神道事務局は当初の開局の理由を失う。1886年(明治19年)、教部省の神道側による管轄として、半ば、神道の公的中央機関であった神道事務局は、神道本局と改め、教派神道の一派となる。
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