神野純一とは? わかりやすく解説

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神野純一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/11 04:16 UTC 版)

神野 純一
基本情報
国籍 日本
出身地 愛知県東海市
生年月日 (1970-04-14) 1970年4月14日(55歳)
身長
体重
177 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1992年 ドラフト7位
初出場 1993年4月10日
最終出場 2003年4月13日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

神野 純一(じんの じゅんいち、1970年4月14日 - )は、愛知県東海市[1]出身の元プロ野球選手内野手)。右投右打。

経歴

小学2年で野球を始め、6年の時に全国大会で準優勝する[1]享栄高等学校では2年先輩に近藤真市長谷部裕、2年後輩に高木浩之がいた。甲子園出場はならず、愛知工業大学へ進む。愛知大学リーグ通算93試合出場、359打数125安打、打率.348、9本塁打、51打点。最優秀選手1回、敢闘賞2回、ベストナイン3回受賞。4年生の時に日米大学野球の全日本メンバーに選ばれた[1]。シーズン個人最多安打記録(92年秋季26安打)を樹立、愛知大学野球リーグ通算安打記録となる125安打を放った[注 1][3]

1992年のプロ野球ドラフト会議中日ドラゴンズから7位で指名され、入団した[3]。打撃だけでなく俊足、好守の三拍子揃った選手として期待されたが、プロ入り後は膝や腰などの故障との戦いが続いた[3]

主に遊撃手としてプレーし、二塁手三塁手でもプレーしていた。

1996年6月12日の対ヤクルトスワローズ10回戦(ナゴヤ球場)では1回裏と7回裏に吉井理人から1号・2号となる1点本塁打をそれぞれ放った後、9回裏には高津臣吾からこの日3本目かつ2打席連続となる同点本塁打を放ち、1試合3本塁打を記録した[4]。この年の本塁打数はこの3本だけで、1試合3本塁打がシーズンの全てとなったのは1949年川崎徳次1988年石橋貢以来、NPB史上3人目だった[5]。しかし、この後は不振から鳥越裕介遊撃手の定位置を奪われ[6]、同年7月26日の対ヤクルト戦(明治神宮野球場)の試合前練習中にノックを右手人さし指に受け、末節骨を骨折したため、出場選手登録を抹消された[7]

1997年は出場機会が激減。

1998年には背番号が0から54に降格した。

1999年は、立浪和義が5月12日に故障で出場選手登録を抹消されてことを受け、同日の対横浜ベイスターズ7回戦(ナゴヤドーム)で先発出場し、第1・第2打席はいずれも三振に倒れたものの、7回裏の3打席目で川村丈夫から1号2点本塁打を放ったが、1点ビハインドの9回裏に一死三塁で迎えた第4打席でスクイズに失敗、チームは3対2で敗戦した[8]。5月19日までに5試合で先発出場し、18打数、9安打、打率.500、3本塁打、6打点の好成績を残していた[9]。その後は代打の切り札として活躍。サヨナラ打を打つなど活躍も見せ、レオ・ゴメス欠場時には三塁スタメン出場もあった。同年オフに右肘を手術し、2000年の開幕は二軍ウエスタン・リーグ)で迎えた[10]

2002年は一軍に定着し、主に代打で活躍したが、2003年は一軍でわずか5試合の出場に終わり、9月29日には球団に現役を引退する意向を申し出、同日中に任意引退が発表された[3]。現役最後の打席は二軍の対福岡ダイエーホークス戦(ナゴヤ球場)で、試合終了後に胴上げされた[3]。一軍で残した通算成績は11年間で383試合出場、打率.239、12本塁打、78打点であった[3]

現在は、中日のマネージャーとなっている。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1993 中日 11 24 19 1 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 5 0 0 7 0 .105 .292 .105 .397
1994 46 108 83 8 16 1 1 0 19 1 5 1 7 0 17 0 1 23 2 .193 .337 .229 .566
1995 25 59 55 3 16 3 0 1 22 6 0 0 0 0 4 0 0 15 1 .291 .339 .400 .739
1996 34 88 79 13 17 1 0 3 27 7 2 1 4 0 4 0 1 23 3 .215 .262 .342 .604
1997 13 53 46 3 8 0 0 0 8 5 2 0 0 1 5 0 1 12 0 .174 .264 .174 .438
1998 44 122 102 8 25 3 1 1 33 16 8 0 4 1 13 0 2 25 1 .245 .339 .324 .663
1999 40 102 88 15 29 3 3 3 47 17 1 1 4 0 10 0 0 22 3 .330 .398 .534 .932
2000 66 102 93 11 20 4 0 2 30 9 0 1 3 0 5 0 1 23 1 .215 .263 .323 .585
2001 30 42 38 4 14 3 0 0 17 7 0 0 1 0 3 0 0 7 1 .368 .415 .447 .862
2002 69 86 77 3 17 4 0 2 27 10 0 0 2 0 4 0 3 30 1 .221 .286 .351 .636
2003 5 5 5 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 3 1 .000 .000 .000 .000
通算:11年 383 791 685 69 164 22 5 12 232 78 18 4 25 2 70 0 9 190 14 .239 .317 .339 .656

記録

背番号

  • 0 (1993年 - 1997年)
  • 54 (1998年 - 2003年)

脚注

注釈

  1. ^ 1本差の2位は後に中日で共にプレーすることになる愛知大学岩瀬仁紀[2]

出典

  1. ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、285ページ
  2. ^ 【中日好き】岩瀬仁紀という超人 : コラムJ SPORTS (2013年9月16日) 2017年1月8日閲覧
  3. ^ a b c d e f 『中日新聞』2003年9月30日朝刊運動2面28頁「竜・神野が引退 ウエスタン29日 中日10-5ダイエー」「妥協せずプレー黙々 けがと戦い11年」(中日新聞社)
  4. ^ 中日新聞』1996年6月13日朝刊運動2面26頁「山崎、延長10回サヨナラ弾 16安打で逆転勝ち 中日8-7ヤクルト」(中日新聞社
  5. ^ 報知新聞』1996年12月20日付大阪版第7版4頁「'96記録スペシャル(11) 中日 大豊との10差逆転 山崎10年目キング」(報知新聞社 蛭間豊章)
  6. ^ 『中日新聞』1996年7月11日朝刊運動1面27頁「中日3回、ワンチャンス逆転 中山9回ピシャリ 立浪が決勝打」(中日新聞社)
  7. ^ 『中日新聞』1996年7月28日朝刊運動1面21頁「ヤクルト3-8中日 拙攻、拙守…ミスミス 竜 被弾 ゼロ敗」(中日新聞社)
  8. ^ 『中日新聞』1999年5月13日朝刊運動1面23頁「セ・リーグ 第7節 横浜3-2中日 12日 痛恨 9回スクイズ失敗 1点届かず」(中日新聞社)
  9. ^ 『中日新聞』1999年5月20日朝刊運動1面23頁「チーム打率一転リーグ5位 竜“五月病”吹き飛ばせ 神野の活躍起爆剤に」(中日新聞社)
  10. ^ 『中日新聞』2000年5月2日夕刊スポーツ面3頁「ダッグアウト 遅れた分早く取り戻したい」(中日新聞社)

関連項目

外部リンク




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