神明通りの開通とその繁栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/05 01:39 UTC 版)
「神明通り」の記事における「神明通りの開通とその繁栄」の解説
1942年 、当時の若松市の都市計画が決定する。この都市計画は、疎開道路として現在の神明通りを含んでおり、神明通りの建設にあたっては興徳寺を移転するものであった。加えて、神明通りの建設時期は第2次世界大戦と重なっており、前述のように疎開道路として工事が進められる中で、店舗や蔵などの取り壊しも伴うものであった。1946年11月に工事が進められていた道路は開通、開通に前後して現在の中町にある神明神社より、神明通りの通り名が与えられている。その後、闇市となっていた時期を経て、昭和30年代に入るころまでに、若松市の市街地における中心的な商店街に発展する。 この時期になると、神明通りは商店街としての整備が進められ、1953年に舗装工事が開始されたほか、1956年には 神明通り南側の交差点に、会津若松市初の道路信号機が設置される。これは東北で初めての道路信号機設置ともされている。また、同年から翌年にかけてネオンアーチやアーケードが設けられている。 そのほか、この時期の神明通りには大型店の開店もみられている。1961年に大善デパート(後のニチイダイゼン、現在のまちづくり会津駐車場の位置)が、1963年には、あとに中合会津店となる若松デパートが神明通り沿いに開店した。その後、1971年には長崎屋も神明通り沿いに開店している。
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