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石川加美

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/07 15:13 UTC 版)

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石川加美
時代 奈良時代
生誕 不明
死没 天平19年3月11日747年4月24日
別名 賀美
官位 従四位下兵部卿
主君 聖武天皇
氏族 蘇我氏石川氏
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石川 加美(いしかわ の かみ)は、奈良時代貴族。名は賀美とも記される。官位従四位下兵部卿

経歴

天平3年(731年従五位下叙爵し、のち備中守を務める。備中守在任中の天平6年(734年)には備中国賀夜郡山陽道沿いの場所に、租税としてのを保管管理するための建物を建設した記録が残っている[1]

天平10年(738年中務大輔に任ぜられると、天平11年(739年)従五位上、天平12年(740年正五位下、天平15年(743年)正五位上次いで従四位下と、聖武朝の中期に急速に昇進を果たす。

藤原広嗣の乱後の天平14年(742年)正月に大宰府は廃止されていたが[2]、翌天平15年(743年)3月には新羅が従来に比べて礼を失した形式の外交使節を筑前国に派遣する事件が発生する[3]。これを受けて朝廷は同年12月に筑紫鎮西府を設置すると、加美はその長官である鎮西府将軍に任ぜられた。天平17年(745年)に鎮西府を改めて大宰府を復活させると、加美はそのまま大宰大弐に横滑りし、引き続き九州地方を統括する任務にあたった。

天平18年(746年)になり左大臣橘諸兄大宰帥に任ぜられると[4]、大宰府の人事は一新されて、大宰大弐の官職百済王孝忠に交替し[5]、加美は兵部卿として京官に復している。

天平19年(747年)3月11日卒去。最終位階は従四位下。

官歴

注記のないものは『続日本紀』による。

脚注

  1. ^ a b 『風土記』備中国逸文
  2. ^ 『続日本紀』天平14年正月5日条
  3. ^ 『続日本紀』天平14年3月6日条
  4. ^ 『続日本紀』天平18年4月5日条
  5. ^ 『続日本紀』天平18年10月25日条

参考文献




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