相浦多三郎とは? わかりやすく解説

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相浦多三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/27 23:44 UTC 版)

相浦多三郎陸軍時代の写真集

相浦 多三郎(あいのうら たさぶろう、1862年6月19日文久2年5月22日[1])- 1942年昭和17年)6月16日[2])は、明治期の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将従四位勲三等功四級[1]

経歴

佐賀藩士・相浦蕃慎の次男として生まれる。兄に海軍中将相浦紀道がいる[1]藩校弘道館)を経て、1883年(明治16年)12月25日に陸軍士官学校フランス式旧士官学校)を卒業(旧6期、騎兵)し[3]、同日、陸軍騎兵少尉に任官[1][3]

1901年(明治34年)5月に騎兵第12連隊長に就任[4]1904年(明治37年)5月に騎兵大佐となる[4]日露戦争に出征し、鴨緑江会戦遼陽会戦沙河会戦奉天会戦などに参戦した[2]。1908年(明治41年)12月に軍馬補充部白河部長に就任後、1910年(明治43年)6月に陸軍少将に昇進と同時に予備役に編入された[2][4]

栄典

親族

長女・ツヤは警視総監貴族院勅選議員などを務めた宮田光雄、次女・ユキは南洋庁長官横田郷助に嫁いだ[1]

系譜

先祖は平安時代末期、松浦郡相神浦(現在の佐世保市相浦)から佐賀多久に移住した松浦党の相神浦(あいこうのうら)氏。以後、姓を相神浦から相浦と名乗る[要出典]

脚注

  1. ^ a b c d e 人事興信録 第5版』(人事興信所、1918年)あ24頁
  2. ^ a b c 『日本陸軍将官辞典』11頁。
  3. ^ a b 『官報』第151号、明治16年12月27日。
  4. ^ a b c 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』70頁。
  5. ^ 『官報』第1820号「叙任及辞令」1889年7月24日。
  6. ^ 『官報』第2558号「叙任及辞令」1892年1月13日。

参考文献

  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。



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