百貫島の伝承と石塔婆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 23:18 UTC 版)
「弁天島 (福山市)」の記事における「百貫島の伝承と石塔婆」の解説
弁天島は、古名を百貫島と称した。これは島内にある鎌倉時代の石塔の由緒に関連した名前だという。 伝承によれば、藤原正道という近江の武士が、厳島神社を参詣した帰路にこの島に立ち寄った際、うっかりして父祖伝来の太刀を海中へ落としてしまった。この武士は、手間賃として100貫を支払うので、海へ潜り刀を拾ってくるよう、地元の漁師に依頼した。しかしサメをおそれて誰もが依頼を断ったという。 武士は立腹して漁師たちの小胆を嘲った。これに及び、ある若い漁師が名誉を守るために海へ飛び込んだ。若者はしばらくして刀を咥えて姿を表したが、足をサメに食われており間もなく息を引き取った。武士は支払うはずだった100貫を費やし、供養のための石塔を建立したという。 島内の石塔婆には文永8年(1271年)6月25日の銘がある。これは、年代が特定できるものとしては広島県内で最も古いもので、広島県の重要文化財「弁天島塔婆(九層石塔婆)」に指定されている(指定日:1954年(昭和29年)9月29日)。 伝承ではこの石塔婆は11層のものだったとされているが、第5層と6層が欠損し、現存するものは9層となっている。花崗岩でできており、高さは約3.7メートル。
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