白井城の奪還、その後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 01:28 UTC 版)
上野を追われた後は一時期常陸国の佐竹義重の元に身を寄せた後、越後の謙信の元に従ったとされる。永禄12年(1569年)に越相同盟が結ばれたことで北条高広に奪われた所領が返還され、元亀元年(1570年)に謙信より白井城にほど近い田留城(現・渋川市)を与えられ、さらにその一、二年後に八崎城を築城して白井城奪還を狙った。天正6年(1578年)に御館の乱が勃発すると由良国繁を通じて後北条氏に従属したが、態度を鮮明にしていない段階で景虎方の厩橋北条氏に居城の八崎城を攻められ、さらに武田方の真田昌幸によって不動山城(現・渋川市)を攻略された。その後厩橋北条氏を通じて武田氏に従属し、同8年(1580年)3月に北条方で当時女淵城(現・前橋市)将を務めていた猪俣邦憲に田留城を攻められている。しかし翌年5月には再び後北条氏に従属し、その翌年(1582年)3月に武田氏が滅亡するにあたり真田昌幸の北条方への従属の仲介を担っている。武田氏滅亡後は一時上野に赴任してきた滝川一益に属したとみられるが、神流川の戦いで後北条氏が再度上野に進出するとこれに従った。この段階で憲景は白井城を奪還し、およそ15年ぶりに白井城への帰還を果たした。尚、同年2月には次男(嫡男)・輝景に家督を譲ったとみられる。没年は天正12年(1584年)とされ、法名は雲林院殿梁雄玄棟庵主。 その後の白井長尾氏は後北条氏の従属国衆となり、後北条氏の元で隣接する吾妻・沼田領を治める真田氏攻略の先鋒的役割を担うことになる。
※この「白井城の奪還、その後」の解説は、「長尾憲景」の解説の一部です。
「白井城の奪還、その後」を含む「長尾憲景」の記事については、「長尾憲景」の概要を参照ください。
- 白井城の奪還、その後のページへのリンク