生存した息子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 02:45 UTC 版)
ステファン、ジム・ジュニア、そしてティム・ジョーンズは、人民寺院のバスケットボールチームに参加しており、ジョージタウンでガイアナ代表チームと試合をしていたため、この集団自殺に巻き込まれることはなかった。ジョーンズタウンでの惨劇が起こったとき、ステファンとティムは二人とも19歳で、ジム・ジョーンズ・ジュニアは18歳であった。ティムの血のつながった家族タッパー家は、3人の姉・妹、兄弟、母がいたが、全員がジョーンズタウンで死んでいる。惨劇の3日前、父ジョーンズからライアンの訪問のためにバスケットボールチームをジョーンズタウンに戻す様に指示を受けているが、ステファン・ジョーンズは、無線を通じてこれを断っている。 ジョーンズタウンでの惨劇の間、ステファン、ティム、ジム・ジョーンズ・ジュニアは、ジョージタウンのアメリカ合衆国大使館へと車を走らせ、助けを求めた。大使館の護衛を行っているガイアナ軍兵士たちは、ポート・カイトゥマ(英語版)空港での惨劇の情報が入っていたため、彼らを大使館に入れようとしなかった。その後、この3人はジョージタウンの人民寺院本部へ戻り、そこでシャロン・エイモスと彼女の3人の子供の遺体を発見している。ガイアナ軍兵士達は、5日間ジョーンズ兄弟を軟禁状態に置き、ジョージタウンで起こったこの死について尋問を行っている。 ステファン・ジョーンズは、ジョージタウンでの死に関与していると告発され、3ヶ月間ガイアナの刑務所に収監された。ティム・ジョーンズは、もう一人の人民寺院バスケットボールチームの選手ジョニー・コッブとともにジョーンズタウンへと向かい、自殺した人たちの特定に協力するよう要請された。アメリカ合衆国へ戻った後、ジム・ジョーンズ・ジュニアは、既に教団に対して反発していた姉スザンヌと共に数ヶ月間警察の監視下に置かれた。 ジョーンズタウンが最初に建設されたとき、ステファンは父から2回にわたり、ジョーンズタウンへの移住を求められていたが、辞退した。しかし3回目の要求の後、最終的に彼はジョーンズタウンへと移住した。彼はジョーンズタウンへと移住するようにとの父の願いに応えたのは母のためだと語った。ステファン・ジョーンズは、現在ビジネスマンとなり、結婚して3人の娘に恵まれている。彼は、ドキュメンタリー番組『ジョーンズタウン:パラダイス・ロスト』(ヒストリーチャンネル・ディスカバリーチャンネル)に出演した。彼は、このドキュメンタリーを見ることはないだろうと語り、父について心痛を感じたことはないとも語っていた。1年後、彼はドキュメンタリー番組『ジョーンズタウンの目撃者』にも出演し、そこで彼は人民寺院内部を写した映像に対して感想を述べている 。 ジム・ジョーンズ・ジュニアは、ジョーンズタウンで妻とおなかの中にいた子供を失い、サンフランシスコへと戻った。彼は再婚し、3人の息子に恵まれた。その内の1人、ロブ・ジョーンズは、サンディエゴ大学、後にセント・メアリーズ・カリフォルニア大学(英語版)へと進学した高校バスケットボールのスタープレイヤーであった。
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