王ジョン
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「中世後期のスコットランド」の記事における「王ジョン」の解説
詳細は「ジョン・ベイリャル_(スコットランド王)」を参照 1286年にアレクサンダー3世が亡くなり、それに続き彼の孫娘であり相続人であったマーガレット(「ノルウェイの乙女」と呼ばれる)が1290年に亡くなることにより、14人の王位請求者が残された(大訴訟 英語版)。スコットランドの有力者は内戦を避けるためにイングランド王エドワード1世に仲裁を頼んだ。エドワードは、スコットランドの王国はイングランド王に封建的に従属するという法的認可を引き出し、その後、請求者の中から最も有力な権利を主張するジョン・ベイリアルを選んだ。彼は王ジョンとして1292年11月30日に即位した。次点で有力な権利を主張したアナンデイルの領主ロバート・ブルースは、ためらいながらもこの結果を受け入れた。続く数年に渡り、エドワード1世は引き出した譲歩を利用し、王ジョンの権威とスコットランドの独立を体系的に弱めていった。1295年、ジョンは主要な参謀らの勧めに応じ、フランスと同盟を結んだ。古い同盟の始まりである。 1296年、エドワードはスコットランドに侵入し、ジョンを廃した。翌年、ウィリアム・ウォレスとアンドリュー・マリー(英語版)はイングランドによる占領に抵抗するために挙兵し、彼らの協力的な指導によりスターリング・ブリッジの戦いでイングランド軍を打ち破った。マリーは戦いで受けた傷によりほどなくして死亡し、ウォレスは王国のガーディアン(Guardian)として王ジョンの名で短期間スコットランドを統治した。エドワードは自らスコットランドへと北上し、1298年7月、フォルカークの戦いでウォレスを破った。ウォレスは逃れたが、おそらくスコットランドのガーディアンを辞した。1305年、彼はイングランドの手に落ち、イングランドに忠誠を誓っていないにも関わらず反逆の罪で処刑された。
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