猪苗代城の内紛と長崎での殉教
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「ジョアン・マテウス・アダミ」の記事における「猪苗代城の内紛と長崎での殉教」の解説
1623年6月10日付の米沢、若松、最上地方における1622年4月から1623年4月までの年次報告書で、岡越後が病弱となり、猪苗代で内紛と迫害が始まったことをアダミは伝えている。猪苗代城代で越後の甥にあたる岡左衛門佐(さえもんすけ)は、一度は洗礼を受けたが棄教し、越後が病弱となると家臣の妻女を暴行するなど家臣や越後を脅迫し、棄教を迫った。越後の長男も左衛門佐に棄教を迫られ早逝し、1622年8月、息子の死後4日目に越後が事故死する。さらに、その4カ月後に越後の娘婿が病死すると、左衛門佐が猪苗代城代を継いだ。そのような状況下でも、この地域では1622年4月から1623年4月までに732人が受洗し、さらに1623年6月までに400人を超える受洗者がいた。1624年にアダミは奥州の出羽(山形)での殉教 について報告しているが、一方、会津の金山(かねやま)では1625年に360人が受洗した。しかし、氏郷の孫にあたる蒲生忠郷が左衛門佐の進言でキリシタンの迫害を始めると、アダミは居場所を失い、後で殉教することになる柴山などの信者らの家を転々と泊まり歩いた。1626年、古参の家臣で猪苗代城の勘定係だった林コスモ主計が左衛門佐の命令で斬首により殉教すると、1630年にアダミは山を会津の教会に残し、江戸(現・東京)を経て長崎へ向かう。その後、山は江戸に送られ1633年に66歳で穴吊るしの刑によって殉教している。その後、アダミは捕縛され1633年10月22日、長崎西坂の丘で穴吊るしの刑によって57歳で殉教した。それは福者に列せられた中浦ジュリアンが同じ場所で穴吊るしの刑で殉教した翌日であった。
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