猪苗代城の内紛と長崎での殉教とは? わかりやすく解説

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猪苗代城の内紛と長崎での殉教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 21:12 UTC 版)

ジョアン・マテウス・アダミ」の記事における「猪苗代城の内紛と長崎での殉教」の解説

1623年6月10日付の米沢若松最上地方における1622年4月から1623年4月までの年次報告書で、岡越後病弱となり、猪苗代内紛迫害始まったことをアダミ伝えている。猪苗代城代で越後の甥にあたる岡左衛門佐さえもんすけ)は、一度洗礼受けた棄教し、越後病弱となると家臣妻女暴行するなど家臣越後脅迫し棄教迫った越後長男左衛門佐棄教迫られ早逝し、1622年8月息子の死4日目越後事故死する。さらに、その4カ月後に越後娘婿病死すると、左衛門佐猪苗代城代を継いだそのような状況でも、この地域では1622年4月から1623年4月までに732人が受洗し、さらに1623年6月までに400人を超える受洗者がいた。1624年アダミ奥州出羽山形)での殉教 について報告しているが、一方会津金山(かねやま)では1625年360人が受洗した。しかし、氏郷の孫にあたる蒲生忠郷左衛門佐進言キリシタン迫害始めると、アダミ居場所失い後で殉教することになる柴山などの信者らの家を転々と泊まり歩いた1626年古参家臣猪苗代城勘定係だったコスモ主計左衛門佐命令斬首により殉教すると、1630年アダミは山を会津教会残し江戸(現・東京)を経て長崎へ向かう。その後、山は江戸送られ1633年66歳で穴吊るしの刑によって殉教している。その後アダミ捕縛され1633年10月22日長崎西坂の丘で穴吊るしの刑によって57歳殉教した。それは福者に列せられた中浦ジュリアンが同じ場所で穴吊るしの刑で殉教した翌日であった

※この「猪苗代城の内紛と長崎での殉教」の解説は、「ジョアン・マテウス・アダミ」の解説の一部です。
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