父ハクラー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 16:58 UTC 版)
最終的な結果から見るとペトラークの後継種牡馬の中で優れた成績を収めたのはハクラー(Hackler)だったが、競走馬としてのハクラーは下級のステークスウィナーどまりで、種牡馬としても全く期待されていなかった。 ハクラーは現役中の3歳の秋に売りに出され、800ギニーでアイルランドの馬商ジェイムズ・デイリーに買われた。そのままダブリンで10ギニーの種付料をとる種牡馬になると、中下級の競走で数を稼ぎ、1898年には10頭の産駒が22勝をあげてアイルランドの種牡馬のなかではトップにたった。とは言えアイルランドの賞金額は著しく低かったため、獲得賞金で序列が決まるリーディングサイヤー争いには縁がなかった。 産駒が障害競走に登場するようになると、次々と障害の大競走を勝つようになり、1905年に全英の障害戦のリーディングサイヤーになった。その後も1912年まで首位を維持した。平地競走では大レースには勝てず、リーディング争いには遠く及ばなかったが、数を稼いで1902年には「勝利数」ではガリニュール(Gallinule)と並んでイギリス1位になった。さらに1903年と1904年には「勝ち上がり頭数」で1位になった。 しかしイギリス国内でのハクラーの評価は「早熟な短距離馬」のままだった。障害レースでも産駒のほとんどは3マイル(約4800メートル)が適距離の限界で、ステイヤーと言える力をもった仔はいなかった。平地でのハクラーの産駒の最良馬は、2歳牝馬チャンピオンのララルーク(Lalla Rookh)である(後述)。
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