災害の発生後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/29 08:36 UTC 版)
山元の精錬施設や居住施設の一部は放棄され、施設の移転が進められていた四阪島への集約が加速した。 一方で、災害の原因となったはげ山の回復は、銅山の復旧と同時並行的に進められた。1901年(明治34年)3月の帝国議会において、当時、足尾銅山の鉱毒問題を追及していた田中正造は、別子銅山が推進する植樹活動を賞賛する演説を行っている。 1904年(明治37年)、伊庭貞剛の後任の鈴木馬左也は、森林計画を立案して鉱山周辺部の造林事業に着手。植物の生育に適さない鉱山周辺の痩せ地にはカラマツやニセアカシア、クロマツを、その周辺部にはスギやヒノキなどの造林木が植樹された。災害後、100年以上経過した21世紀の現在では、植林された木々は山々を覆い尽くし、はげ山の面影はない。
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