渡辺家の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 00:25 UTC 版)
渡辺家は、江戸時代のはじめに摂津国から三河国を経て江戸にやってきた渡辺久右衛門からはじまる。中興の祖とよばれる第8代渡辺治右衛門のときに日本橋魚河岸に一大勢力を築いた。その子、第9代渡辺治右衛門が東京渡辺銀行を経営し、株式と不動産への投資を中心に一族の事業を発展させた。 平民新聞が1906年(明治39年)に発表した東京市の大地主によると渡辺家当主の第9代渡辺治右衛門が108人中第5位であった。「昔は日本橋から上野に帰るまでの道筋は大通りを除いては、たいていが渡辺の地所であり、渡辺の地所でない所は極少なかった《原文ママ》」という伝聞もある。東京市街自動車の初期計画路線として新橋と上野の間をはじめ東京下町一円を中心に計画されており、渡辺家の地所、東京渡辺銀行の営業範囲とほぼ一致していた。 また大正期に渡辺家当主であった第10代渡辺治右衛門は「ダイムラーをはじめ、四、五台の車あり・・・もと車夫に運転させて乗りまわし」というほど自動車マニアであったといわれる。
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