減退と凋落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 21:31 UTC 版)
国民公会からの山岳派の凋落と排斥は、革命の急進期の崩壊と1794年テルミドール10日(7月28日)のロベスピエールの死と共に始まった。山岳派が統一を祝う一方で、ロベスピエールと公安委員会が政府内の汚職に対して軍事や厳しい反対に関して厳格な管理で無理をしたことで山岳派内に異成分が成長することになった。その無理は穏健派のダントン主義者を率いる協力者がロベスピエールが処刑を計画しているとの恐れへの反応として起こしたテルミドール9日に合体する他の革命指導者の憤怒や数多の陰謀を引き起こした(テルミドールのクーデター)。 ロベスピエールの粛清は、ジロンド派のように不快な党派を追放する山岳派により採用された嘗ての手法に激しく似ていた。しかしロベスピエールが広く山岳派の中心とみなされていた為にその死は山岳派の崩壊を象徴していた。僅か約100人がいなくなっただけでその後は山岳派の名称を引き継ごうという人は殆どいなかった。遂に1794年末には山岳派は大部分は真の権力を失った「とさか」(フランス語: crête)と呼ばれる党派に移行した。
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