深作欣二版映画企画
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「海燕ジョーの奇跡」の記事における「深作欣二版映画企画」の解説
松竹富士で藤田敏八が映画化する以前に東映が映画化権を取得し、深作欣二を監督に、松田優作を主演にそれぞれ起用して映画化する企画があった。東映は1981年の正月作品として公開する予定でポスターを製作し、松田優作主演の『蘇える金狼』のフィルムを流用した特報も10日間映画館で流していた。チーフ助監督には崔洋一が起用され、脚本作りにも参加した。しかし、松田優作が松田寛夫の脚本を酷評し、自身と親しい丸山昇一に脚本を書かせると一方的に主張したことから、憤慨したプロデューサーの日下部五朗が松田優作を降板させ、企画は流れた。松田が東映の脚本を最終的に断ったのは1980年の暮れも押し迫った時期で、物理的にももう正月映画には無理な状況ではあったが、松田が当時所属していた夢屋事務所の代表・笹岡幸三郎が岡田茂東映社長に謝罪に出向く事態に発展、東映も大混乱に陥った。 この時点で、沖縄、与那国、フィリピンにシナリオハンティングを行ない、2000万円を費やしていたという。また、当初ヒロインには1980年の『四季・奈津子』で大胆なヌードを披露して人気の上がっていた烏丸せつこをキャスティングしていたが、東映が烏丸のヌードばかりを売るプロモーションを展開したために本人が「もう東映には出たくない」と降板した。一方の東映は「思いあがりもはなはだしい」と激怒している。 1981年の正月映画として予定していたこの企画が流れたため、東映は深作と蔵原惟繕の2班体制で急遽『青春の門』を製作し、正月第2週に公開した。
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