海上の反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 05:32 UTC 版)
アミスタッド号の航海は、1839年6月28日、当時はスペイン植民地であったキューバのハバナから始まった。船には、奴隷として購入されたとされた53人のアフリカ人が乗っていた。船は、キューバのプエルト・プリンチペ(カマグエイ州)に向かっていたが、7月2日、アフリカ人の一人、ジョゼフ・シンケ(Joseph Cinqué、本名Sengbe Pieh)が自らの鎖を解くことに成功し、仲間の鎖も解いた。彼等は、船のコック(アフリカ人たちに対して、目的地に着いたあとどのようにして彼等が殺され、食べられることになっているかを語って脅していた)と船長を殺害、2人のアフリカ人も戦闘の中で命を失い、また2人の船員が逃走した。アフリカ人たちは、偽造書類上奴隷たちの所有者となっていたホセ・ルイス(José Ruiz)とペドロ・モンテス(Pedro Montez)の2人については、彼等が船をアフリカに向かわせると信じて殺さず、また船長が個人的に所有していた奴隷についても命を奪わなかった。 しかし、舵を握ったルイスたちはアフリカ人たちをだまし、アミスタッド号をアメリカ合衆国海岸沿いに北へ航行させた。アミスタッド号は沿岸でしばしば目撃され、同年8月26日、ロングアイランドの半マイル沖に投錨し、数名のアフリカ人たちが水や物資を確保するために上陸した際に、アメリカ海軍ブリッグ艦ワシントン号(1837年建造)により発見された。司令官のゲドニー(Gedney)大尉の命令により、ワシントン号乗員はアミスタッド号および奴隷たちを拘留し、コネチカット州へ連行した。大尉はそこで海事法に基づいて、船体、積荷、およびアフリカ人たちの海難救助報告書を提出した(この行為は、文書誹毀罪に相当)。伝えられるところによれば、ゲドニー大尉はコネチカット州では(ニューヨーク州とは異なり)奴隷所有が合法であったために、コネチカット州に上陸し、奴隷たちから利益を得ようとしていた。
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