浜田赤堀家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 23:19 UTC 版)
浜田赤堀家は浜田藤綱 -> 浜田元綱と家系が続き、浜田元綱の代に織田信長の家臣の滝川一益軍による伊勢進攻があり、天正3年(1575年)6月に赤堀城と浜田城が落城して浜田元綱は自害した。浜田元綱の息子の浜田重綱は逃げ延びた後、織田信長の二男の織田信雄に従い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで美濃国の加賀井で戦死して浜田氏は滅んだ。浜田城は天正12年に秀吉軍対策で織田信雄の家臣の滝川雄利が修築して一時在城したが、まもなく廃城となった。浜田氏の浜田武士の死者を祭神とする鵜森神社がある。鵜森神社の東正面を除く三方面には土塁が良く残り、南側の池は堀の一部の跡地である。赤堀城跡は現在は水田や宅地となり遺構は残っていないが、明治時代の地籍図には土塁や堀をたどる事ができて、四日市市赤堀町の一部区域の赤堀字城西から城東にある五十米四方の草生地が城の中心だったとされる。
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