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浜田敦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/31 15:28 UTC 版)

浜田 敦
人物情報
生誕 (1913-08-06) 1913年8月6日
日本京都府
死没 (1996-09-21) 1996年9月21日(83歳没)
日本
心不全
国籍 日本
出身校 京都帝国大学
両親 父:浜田耕作
学問
時代 昭和平成
研究分野 国語学
研究機関 大阪市立大学
京都大学
指導教員 新村出
主要な作品 #著書
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浜田 敦(はまだ あつし、1913年大正2年〉8月6日 - 1996年平成8年〉9月21日)は、日本日本語学者京都大学名誉教授

経歴

浜田耕作の子として京都に生まれる。

1939年京都帝国大学卒。新村出に師事。戦後大阪市立大学助教授となるが、1956年に京都大学文学部助教授となり、1969年より国語学主任教授1977年まで務めた。

1996年に心不全のため死去。

業績

国語学で扱う主要テーマはほぼ全て網羅していたが、中心は上代日本語中古日本語中世日本語であった[1]音韻に関しては、その歴史的変遷を辿ることによって、日本語の音韻歴史を明らかにするという方向であり、音韻体系そのものではなく、音韻体系の外側にあった音(あるいは体系の外側に生まれてきた音)について綴った[1]文法研究においても、文章の微妙な意味を読み分けた上で用例を博捜し、その意味の変遷から語源まで論じている[2]

浜田の立論は幅広い用例と丁寧な解説、さらに断定を避ける表現によって、難解な部分を生じていることも多く、また従来あまり国語学では利用されなかった古文書、中国資料、朝鮮資料などを総合的に利用するところに特徴がある[1]。とりわけ外国資料の利用は、晩年に至るまで一貫していた[3]

人物

大学の単位制度には「学生の勉学を妨げる」として否定的で、名簿に登録さえすれば単位を認定するという方法を取っていたが、同僚の教授たちからは批判的な目で見られていた[4]。また「学生・院生といえど研究者である」と決して雑用をさせなかった[5]

論文の記述は慎重で、雑談の折でも学問的な話題については断定を避けていたが、日常生活では断定的な物言いをしていた[6]

著書

単著

編著・共著

校訂

解題

脚注

参考文献

  • 木田章義「新日本語学者列伝:浜田敦」『日本語学』第31巻第7号、明治書院、2012年6月、56-65頁。 



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