永代静雄・岡田美知代との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 05:19 UTC 版)
「中山泰昌」の記事における「永代静雄・岡田美知代との関係」の解説
1904年(明治37年)10月伝道師横山佐野子と京都の永代静雄宅を訪れた際、活躍中の女性作家として岡田美知代の名を知らせたことがきっかけで、静雄と美知代の交際が始まった。しかし、先に美知代に好意を寄せていた師田山花袋が美知代の父親に2人の交際を伝えたため、美知子は父親により故郷に連れ戻され、泰昌は神戸女学院の女性教師の名を騙って美知子と文通し、静雄との連絡役を務めた。 その後、美知代は花袋の責任の下で上京を許されたが、1909年(明治42年)夏静雄の子を妊娠すると、泰昌は花袋に責任が及ばないよう美知代を千葉県本納町の借家に匿った。同年大晦日に2人が牛込区原町に新居を構えると、泰昌も同居し、産まれた女児を「千鶴子」と名付けたが、同年泰昌が発表した小説「栗の樹」を美知代が褒めたことが静雄の嫉妬を買い、本郷区福山町の下宿に転出した。 その後も公私ともに静雄との関係は続き、1944年(昭和19年)死去した際には葬儀の委員長を務めた。
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