氷川神社祢宜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 18:56 UTC 版)
1887年(明治20年)2月18日退官し、大宮氷川神社祢宜に就任した。1876年(明治9年)の東北・北海道巡幸では行幸堤の建碑に関わり、1878年(明治11年)8月の北陸・東海道巡幸では大宮御小休所御用掛を勤めた。 1889年(明治22年)10月1日宮司堀越弥三郎による排斥運動で旧社家出身の主典東角井福臣が免職されると、12月氏子総代等により相次いで抗議の建言書が提出され、騒動となった。建言書の中には県庁からの天下り人事を批判した条目もあり、1890年(明治23年)7月8日勝野は県に対し建言書は不当と報告したが、12月9日勝野は祢宜を退任し、後任には県庁出身でない新庄清が就任した。 退任後は専ら歌壇で活動した。1908年(明治41年)11月27日死去し、青山墓地に葬られた。
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